様々なアルバイトを経験するもどれも長続きせず職を転々とする日々。
そんな中、偶然ピースボート世界一周の船に乗ったことが転機となり、
その後ピースボートスタッフとしてベトナムをはじめ40ヶ国を訪れる。
2004年、漠然とサラリーマンに憧れて就職活動を開始し一般文具メーカーに就職。
その傍ら、友人とミュージカルを題材に人材育成を推進するNPO法人を設立。
週末は述べ参加者数5,700人、観客動員数約20万人のミュージカル総合演出・プロデューサーとして活動。
2011年に東北の震災ボランティアに参加後、人材育成業界に転職し、東南アジアを中心にプログラムを実施。
2012年 これ迄の人生で出会った友人10名を誘いベトナム、ホーチミンに移住して農業を開始。
2015年に拠点をホーチミンから中部高原地方ダクラク省バンメトートへ移す。
今の農園(Farmers Union Venture.,Co.Ltd.)で働き始める。
2018年に農園の経営を任される。
好きな物は果物と昆虫。
・今後を見据えて深く共感してくれるパートナー(仲間)や取引先。
・日本との取引を増やしたい。(特に地元の北海道での仕事。)
・商品や農場に付加価値をつけたい。
インタビューは午前中でお願いします!
午後はスコールが多くて、スコールが降ると電波が悪くなるので!
そう言われて臨んだネット取材の日、お昼前に始めたインタビューの冒頭、
彼は画面の向こう、カフェに陣取り
「ノーヘルでここまで原付で走って来てて警察に捕まっちゃって!」
と、笑う。
時差は2時間。あちらはまだ朝だというのに
パソコン画面の向こう、彼が陣取った田舎のカフェの店内に
にぎやかにベトナム語が響いている。
ホーチミンから300Km離れたバンメトート。
ここは、その西側にカンボジアとの国境を有し、標高500mに位置する
中部高原地帯最大の街。
ベトナムの軽井沢とも呼ばれるエリアもほど近く、
“高原”と言っても標高で言うと400mから1800mまであり、
もはや山岳地帯と言えるだろう。
その豊かな自然もあり観光地としても好まれ、
また、コーヒー、胡椒、カシューナッツの世界最大の産地でもある。
一方で、半世紀ほど前にはベトナム戦争最激戦地となったり、
その後にも内紛が起こったりと、かなしい過去もここにはある。
そんなコーヒー好きの人や、ベトナム戦争に詳しい人にとっては
聴き馴染みのある、それでも日本からは遠い街の外れに
日本人離れしたスラリと立派な体躯をした一人の日本人男性が暮らしている。
「ピースボートで訪れた色々な国の中で特にベトナムがよかったんですよね。
初めて自分がベトナムを訪れたのは19年前の2001年5月30日です。
あの時はみんなノーヘルで、スーパーカブに3人で跨って、
土埃を巻き上げながら走ってる、みたいなそんな国だったんです。
そして何より多くの人がチャレンジしていたのがかっこよかった。」
「日本で居た頃の自分はどこかでずっと“ものづくり”を欲していて、
でも、その当時の仕事にはそこが少なかったのもあり、
どうしても自分的にはやってる感が足りなかったんです。
それに、守られていない状況に立ってみたかったんです。
もともとそんなにチャレンジ精神はなく石橋を慎重にたたくタイプなんですけど、
でも、我慢できなかったですね。冒険心をくすぐられたんでしょう。」
謙虚なまでににそう語る彼の名は髙埜 太之。
ベトナムで農業に従事する38歳の彼だがその風貌はいまだ青年のように若々しい。
日夜農業に体を動かし働いているからか?と思いきやどうやらそうでもないらしい。
「今はほとんど現場よりも運営仕事をしてるので、頭脳労働者です。
もともとは農場で野菜を作ったり、売ったりという事をやろうと思っていましたし、
ベトナムに来た当初はそういう仕事でしたけど。」
ー仕事内容に変化があったという事ですか?
「最初の二年間は日本から一緒に来た仲間たちと
ホーチミン近くに土地を借りて果物を作って売ってました。
最初の頃はまぁそれで良かったんですけど、
だんだんと収支的にもモチベーション的にもダメだなってなって、
今は縁あってバンメトートに移り農場の運営をしています。」
ー話を聞けば聞くほど、気になる事が増えてくる。“仲間たち”と日本から来た、とは?
「ベトナムに渡る時に、友人たちに声をかけて31歳の自分以外は
19歳と、あと全員20代という合計10人で観光ビザで入国したんですよ。
まぁなんとかなるかな!と。というか生きる為にならなんとかするだろうと思って。」
ー移住仲間はどうやって誘ったんですか?ビザはその後どうしたのですか?
「仲間はそそのかしました(笑)。
その頃のベトナムには若い日本人男性ってほとんど居なくて、数は力だ!というか
団体で来ると日本人社会にインパクトを与えられるだろうと思って。
あと一人だと寂しいだろうしとも思って。(笑)」
「でも、ビザよりまずパスポートも持っていない奴もいたのでそこからでしたね。
それで滞在用のビザは知人のつてでなんとかしてもらえたけれど、
農業はそううまくはいかなかったんですよねぇ。」
「農業の理屈や理論は分かってるつもりだったんですけど、
実際の土の下の事はまったくと言っていいほど分かっていなかった。
それに農業従事経験の短さもあって
周囲から信用を得られなかったのがかなり大変でした。」
「それでも最初の最初は、みんなモチベーションが高かったし
とにかく売上があがる事が純粋に嬉しくて、
チャレンジしてる!って事もあいまって満足していたけど、
2年目が終わった頃にはもう全然ダメで、
みんなで話し合って最初のチームは解散しました。」
一人一人ととことん話し合い、
ほとんどの仲間を日本や違う業界へと送り出していったのだと言う。
「みんな、やりたい事や方向性が分かれていったというか
それぞれ見つかったので、最終的には円満な別れでした。
今の会社は日本人4人ベトナム人8人が居て、一緒に来た仲間は一人だけ残ってますけど、
彼は今うちとは別の日本の現地法人に出向してエビの養殖をしていますね。」
「うちは日本とベトナムの間に農業で良い関係を築くことを目的にした農業法人として、
胡椒やカカオの生産管理に輸出、他にも果樹園でオーガニックな果物やハーブ、
卵なんかも作ってベトナムで販売したり加工食品を作ったり、
あとは日越農業人材の研修を受け入れたりしています。」
「日本もそうですが、ベトナムでもオーガニック食品の需要は生鮮、加工品ともに
アッパー層を中心に伸びていて、特にうちは本当の意味でのオーガニックとして
国内外から信用してもらっています。」
ー初期チームの解散から数年でここまでよく作り上げましたね。
「実はこの農園(法人)は以前から有って、
今から5年前に紹介してもらって参加して、
それで今はほとんど全ての運営を任されているという感じなんですよ。
なのでゼロから作ったわけではないんです。」
ー農業法人の代表に昇格したという事ですか?
「いえ、創業者が今も代表をしていて、彼は今愛媛で暮らしているんですが、
元々オーガニック栽培を広める思想家で面白い人なのですけど、
実務家という感じではなかったので…
彼の思想を生かしつつ今は日本でのサラリーマン時代に培った
実務とマネージメントやらの経験を活かして私が中心になって運営しています。」
ーどういった経緯で運営を任されることになったのですか?
「この農園は元々ベトナムや日本の国際協力機構(JICA)、
それに日本の関連企業などから投資されつつ運営されていたんです。
でも潤沢に有りすぎる資金のせいもあり色々と失敗していて…、
ここに入る前に一度見学に来た時には最新式の農業機材も揃った
野菜づくりもできる広大な果樹園を有する凄い農園で、
自分たちの参加もまぁ歓迎されてる感じだったのですが、
いざ参加した頃にはその農業機材は全て国に没収され、
農地も4分の3を国に返す事になってて…。」
「その上、自分の仕事を奪われると思ったからなのか
日本語のできるベトナム人スタッフにいじめられたりで、
騙されたー!辞めてやるー!って思ったんですけど、
せっかくだし社内を綺麗にしてからやめようと頑張ってみたら、
ビジネスの種が幾つか転がってるのが見え出したんですよ。」
「それで一つ一つ改善していって、ちょっとずつ任されるようになって、
毎年1000万円の赤字を出してた会社だったのを
微々たるものですが利益を出せるように経営改善して、
日本からこの農園に出資してくれている人たちからの信用も得られて、
という流れで3年かけて今の体制になりました。」
ーよく続けてこられましたね。
「他にできる事もそうなっかったですし、お世話になった人も居たので…。
あとは今もそうですけど、農園のメンバーに認めてもらいたい
っていうのがモチベーションですね。
うちは元々離職率が高く最長でも4ヶ月しか継続勤務されない会社だったんです。
だから私もいつまで続くかわからないよね、と。
きっと今でも少しは思われているだろうし思われて当然の環境だったんです。
それでも今は随分と環境を改善してきてて、
ほとんどのスタッフは2、3年勤めてくれています。」
ー日本でも培って来たマネージメント力が活きた形ですね。
「そうですね。何より一つ一つの積み重ねだと思います。
ちゃんとやった事に対して報酬を渡す。
やらなかった事には報酬をあげないとか、そんな所から始めました。
日本だと普通の事でも社会主義国家のベトナムでは普通じゃなかったんです。」
ー日本とベトナムはやはり違いますか?
「良くも悪くも昔の日本のようなイメージというか、
給料を上げたければ上司に気に入られないといけないとか、
色々と生産性が上がる仕組みではなかったんですよね。
そういう意識を変えてきた事例は幾つかありますね。」
「例えば『親しくなる』という感覚も今の日本とは違っていて、
こっちの人は親しくなると知らないうちに物やお金を共有するというか…。
友人の家には平気で上がり込むし、勝手にご飯も食べるし、とか。
自分と同一化しちゃうのか、謝罪や感謝の言葉も出なくなる。
文化としてそうなのだろうからそれは別にそれで良いのだけど、
先進国とのビジネスをやろうと思うと、それではできないんですよ。」
ーなるほど、でも人の意識を変えるって相当大変ですよね?
「戦争世代のおばちゃんとかも居て、確かにそういう意識改革は難しいんですけど、
今は毎日の成果報告をLINEで送って貰えるところまで来ました。
そしてきちんと成果を出した分はお給料に反映させています。
おかげでやる気を出してくれているのは嬉しいのですが、
当然のようにお給料に関しては皆シビアです。(笑)」
高埜さん曰く、歴史的背景それに多民族国家であることなどから
ハッキリと数値化された共通価値を重要視してるためか、
ニコニコ現金主義だそうで、喜びや感謝を現金で示すことが多いそう。
「お給料に関してシビアなのはきっと
きちんと評価されている証(あかし)が欲しいのだろうと思っています。
多くお給料を貰った時などは周囲の人に御馳走してあげたりして使うので、
みんな決してがめついわけではないんですよね。
そういう意味で言うと、むしろ逆におおらかだと思います。」
ーーなるほど。しかしLINEでの成果報告ともなると、高埜さんはベトナム語はお上手なんですか?
「いえ、ベトナム語はこっちの5歳児並です(笑)。
なので成果報告は成果物を写真で送ってもらっています。
重要度の高いコミュニケーションは通訳を介して、
現場での指示や問題点の改善指示や日常会話では
ベトナム語とジェスチャーとGoogle翻訳を使っています。」
ー言葉は日常生活には差し支えがないレベルという事ですね。
「そうですね。とくに農業なんかで使われる言葉は限られていることもあって、
極端に困ることはあまりありません。
それ以外でも一緒に食事をとったり、社員旅行に行ったりする時も困らないレベルです。」
ー社員旅行にも行ってるんですか?
「もちろん!いつもできる限りで相当良い所に連れてくようにしています。
彼らにはプライドを持ってもらいたいんですよね。
『こんな良い所に社員旅行で行ける会社の社員なんだ!』と
自身にも周囲にも誇って欲しい。制服やロゴマークなんかもそうです、
小さな町なんで、あの会社のメンバーなのねって町の皆に一目置かれるようにしたい。」
ーなるほど!他者の目の意識、誇り、社員という意識づけも大事なわけですね。
「そうですね、単純労働をお願いしてるわけではなく
相談でき、行動できる社員を雇っているつもりですし、常にそうあって欲しいと願っています。
ベトナムだと難しいことなのですが、うちのスタッフは比較的そうあってくれていますね。」
こうっやって一つ一つ積み重ねて成果をあげ、
成長している高埜さんたちの頑張りが様々な努力が実をむすび、
国に一旦返却せざる負えなかった土地も、新しい権利者の信用を得て
再び耕作させてもらえるようになり、日本の取引先も年をおうごとに増えているそう。
「ありがたいことに、うちの農場での成果を隣で見てくれてたんでしょうね、
任せたいって言ってくれて、今はそこも使って果物を作っています。」
ー今後も事業拡大をしたいとお考えなのですか?
「うーん、正直生鮮の果物や野菜なんかの生鮮青果は元々やりたかったことなので
縮小や撤退はできるだけしたくないと考えていますし、
かと言って事業を拡大したいと思わないわけではないのですが、
このコロナの状況下ですし、まずは何より経営の安定の為にも利益をもう少しあげたいなと。
その為には今以上に付加価値をつけたいと思っています。
何度も言いますが、こう見えて石橋を叩いて渡らない位に慎重な部分もあって。笑」
ーでは、会社の事業的な目標は利益率の向上ということでしょうか?
「事業的にはそうですね。それと、会社の基本方針でもあるのですけど、
根本的には日本との取引をもっと伸ばしたいと思っています。
日本の人が求めるような本当のオーガニックな食材を
日本企業がこっちで新しく法人を作って日本へ送るよりも、私たちに任せてくれる方が
コスト的にも合うということで、少しづつですが取引先が伸びています。
ここを伸ばしていきたいところなんですが。」
ー個人的な目標はありますか?
「自分は慎重な部分もある反面、
遠くに目標を定めそこに向かって成長をしていくということを
これまであまり考えられていませんでした。
そして元々自分は仕事とプライベートの混同型で、
どうしても最優先に会社、農場を安定させることに注力してしまいます。」
ー中長期のビジョンが弱かった、ということでしょうか?
「そういうことなんでしょうね。
それで家族や周囲を不安にしてしいがちでした。
しかしこれではだめだなと思い「2年後の40歳までにこうなりたい」という
人間性の成長指標を作り、そこだけは努力しています。
今の仕事はそういう意味でも最適だと思っていて、ここは自分に足りない部分である
仕事面や人間性を誰にも文句を言われず、一直線に学べる環境なんです。」
ー今回の記事ではどんな人にご自身のことを知ってもらいたいですか?
「以前はたくさんの人に知ってもらえることが自分の力になると思ってました。
でも今はそういう気持ちは少なくなって、本当に興味がある人に知ってもらいたい、
共感してもらえる人、価値観やセンスをどこかで共有できる人に知ってもらいたい。
やはり外国で仕事をしているからか、孤独感もありますね。
助けが欲しいというよりも、
相談して、うなづいてくれる相手が欲しいといったところですかね。
ビジネスパートナー的な人との出会いというか。
そういう人と話していると、学ぶことも多いですし、
常にブレイクスルーのきっかけにもなってくれますし。」
ー明るい雰囲気の高埜さんですが、やはり外国で孤独感はあるのかもしれないですね。
「今は家族と離れているのも一因かなと思います。
家族は今日本で暮らしていて単身赴任状態なので。
そういう意味でも日本にいくビジネスを作って、
ベトナムと日本を行き来するライフスタイルを作ることも目標ですね。
そのためにも、ビジネスパートナーができると嬉しいです。
特に北海道で。地元でもあるし、家族も今は札幌に住んでるので。
ただ…ビジネス的にはコロナがあって、
直近は移動しないでも良い方向でうまくいく方法を中心に探っています。
ジレンマですね。しょうがないですけど。」
そう言って画面の向こうで笑っている高埜の目線は
少し遠くをみているようだった。
経営者として今必要なことは、
日本でのアテの低いビジネスパートナー探しにばかり注力する事よりも、
まず目の前の事、ベトナムの中でのビジネスを安定的に成長させる方が
より現実的だと判断しているのだろう。
だからこそ、彼らの社是でもある日本のビジネスパートナーとの出会いを作ることが
彼と彼らの活動、チャレンジを側面から支えることに繋がるだろう考える。
ベトナムに渡る時に求めた仲間を、今また求める事は
きっとそこに大きなブレイクスルーがあるからこそだろうと思うので、
ソダテタでは、そんな彼らとビジネスパートナーになることを
前向きに検討したいという企業の方々や、助力したい人も募集したい。
ベトナムは比較的コロナの封じ込めに成功した国の一つと言われてはいるものの、
国際化するベトナムビジネス下においてコロナの影響はやはり大きい。
遠く離れた空の向こうで頑張る高埜さんが
いつものひょうきんさで皆を笑わせながら
明るく前向きに頑張っていけるようにと心から願っている。