【ソダテタ発起人&製作者インタビュー】ソダテタができるまでのこと。「森岡さん、挑戦って何ですか?」

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森岡友樹

大学在学中にアーティスト村上隆に見初められ10代でアーティストデビュー。 国内外で個展、グループ展参加。受賞歴少々。
独立後、食うや食わざるやの時期を経てプランニング領域を主戦場にビジネス界隈でうろうろしはじめる。
またその傍ら不動産領域での活動も趣味で開始。酔った勢いで立ち上げたmixi「間取り図大好き!コミュニティ」では一時19万人以上の会員達と日夜面白い間取り図、魅力的な間取り図を観賞して盛上がる。これが発展しリアルイベント「間取り図ナイト」となり人気をはくし、全国でのべ60回以上開催しほぼ毎回満員になる人気イベントにまで成長。これらが縁でwebサイト「物件ファン」立上げに参画し、初代編集長をつとめるというわらしべ長者っぷり。それ以外でも2010年頃から瀬戸内海の小島でゲストハウスを立上げたり、地域活性領域にも顔を出したり、世界中で手打うどんを打ちながら転々としだしたりと、活動は多岐にわたる。現在は全国 47 都道府県への巡回中の「間取り図ナイト最終回ツアー」をほそぼそ継続中。


ソダテタをごらんいただいているみなさまこんにちは、
ソダテタの発起人で、プロデューサーの森岡です。
はじめましての人も多いかと思います。

さて、ソダテタがどういうサイトか?ということは
いままでもこれからも、折を見て書いていけたらと思っておりますが、
そもそも、私がどういう人間なのかを少し知ってもらいたくて、
友人のライターさんにインタビューしてもらいましたので、もしよかったらご一読ください。

 

 

「ソダテタ」インタビュー記事 森岡友樹さん

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ソダテタができるまでのこと。

森岡さん、挑戦って何ですか?

 

2020年の暮れ、前代未聞の「推し活」をエンタメにするメディア『ソダテタ』が産声を上げた。プロデュースしたのは森岡友樹。約10年前から構想していたというこのメディアには、全世界に散らばるディレクターたちが渾身で推す「私のヒーロー/ヒロイン」たちのドキュメンタリーが掲載されている。その生きざまに共感し、応援したい気持ちが芽生えたら、読者はお金やものや人でサポートすることができる。奮闘する彼ら・彼女らの成長を楽しみに陰で支え続けながら、いつか大きな花を咲かせた時、「ワシが育てた」と飲み屋でちょっと良い顔ができる、そんなメディアだ。「すべての挑戦は尊い」と森岡は言う。今回は、森岡がなぜソダテタをつくるに至ったのか、森岡自身のバイオグラフィーと共に紐解いてみた。

 

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目次

 

1. ずっとブランコに乗っていた少年時代

2. 中学ではやんちゃな人たちに囲まれる

3. 高3で、もう余生

4. 赤瀬川原平的人生なら、いけそう

5. 村上隆に見いだされ現代美術作家デビュー

6. 誰かの焼き直しはしない。島へ

7. いろいろつくって人にあげる

8. ソダテタは挑戦者たちのベーシックインカム

9. 森岡さんの「挑戦」とは?

 

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1. ずっとブランコに乗っていた少年時代森岡は

 

森岡は1976年の初夏、香川県丸亀市で生まれた。まちの中心に丸亀城があるこの城下町は海運の要所でもあり、森岡が幼少の頃は大勢の港湾労働者と彼らが遊ぶ歓楽街、競艇場などで栄え、瀬戸大橋の建設のためにたくさんの人が流入し賑わっていた。ところが昭和・平成の地方都市によくあるように、バブル崩壊後、このまちの中心部もまたシャッター商店街と化した。森岡はサラリーマンの両親のもと、経済成長期に開発されたニュータウン系の団地で、兄と姉のいる末っ子として成長した。

 
昔も今もムチムチなまま

本さえ与えておけば静かだったという森岡少年。「友達のつくり方が分からなかったんですよね」と言う。小学1年生の時に親に「産み分け」について質問し、5〜6年生になった頃、同級生たちが性の目覚めと共にその話題ではしゃいでいるのを見て隔たりを感じた。どうやったらみんなとうまくコミュニケーションが取れるのか分からなかった。

 
太鼓、剣道、書道などを習っていた

またある時、本で宇宙の果てについて読み、そこには何もないと想像したら怖くてたまらなくなりパニックに陥った。「意識をもう少し自分の近いところに留めないといけないのに、いろんなものの中に拡散してしまって、宇宙との一体感を小学生の時に感じてしまっていました。隣にいるクラスメイトと、宇宙の端っこにある存在を、同時に感じていましたね」

 

生きているのがつらくてしょうがなかったので、森岡少年は毎日ひたすらブランコに乗っていた。ブランコの遠心力を、直線運動に変えてジャンプする。何度も、何年も、ひたすらそれを続けていた。
 

一人で遊べるブランコは友達の居ない少年にはもってっこいだった
 

2. 中学ではやんちゃな人たちに囲まれる

 

中学生になると、周りは「良い子」から少しはみ出したやんちゃな人たちが多くなり、森岡自身はやんちゃではなかったが、なぜか彼らと一緒に過ごすことが多くなった。彼らは森岡のことを面白がってくれた。「変わってる奴だな」と言いつつも、その違いを許容してくれる人が現れ始めた。

 

「勉強はできるけどうまく生きられない人とか、勉強はできないけど直感がめちゃくちゃ精確な人とか、そんな人たちと少し話ができるようになりました」

 

学校で求められる一般的な規格に当てはまりにくかっただけで、彼らは彼ら自身を生きていた。だからこそ森岡のことも認めてくれた。

 

3. 高3で、もう余生

 

小・中学生の時は成績もそこそこ良かったが、高校生になる頃には森岡は勉強する限界を感じていた。成績は徐々に下がっていき、高校3年生の時、森岡は「もう余生だな」と思った。これからこの状態を挽回して社会の中でトップランナーになれないのなら、あとはジョギングし続けるしかない。人生のつらさがずっと続くだけだ。願わくば、親よりは後に死のう。そんな人生観だった。

 

進路を選択する時期が来て、森岡は洋服屋になろうと思った。洋服が好きだったので、サラリーマンになってよく分からない仕事をして生きていくよりは、今から打算的に選べるまあまあ面白い人生がそこにありそうだと考えていた。ところが夏休み前の三者面談の時、親が「大学に行ってほしい」といきなり発言した。森岡は驚いた。三者面談の前に、まず俺に言ってくれ。先生は大学を受験するための本をくれた。

 

4. 赤瀬川原平的な人生なら、いけそう

 

その後、夏休みに入り大学受験の本を見るともなしに見ていたある夜のこと、テレビニュースで、あるカルト教団に入信し共同生活を送る若者たちを社会に連れ戻すにはどうしたらいいかという質問に対し、現代美術家の赤瀬川原平が「ウナギを焼けばいいんですよ。そしたら1人ぐらい匂いにつられて出てくるでしょう。あとは2人3人と芋づる式に出てきますよ」という意味のことを答え、その後に彼の略歴を紹介する映像が流れた。 森岡はとてつもない衝撃を受けた。赤瀬川原平のことを知りたくなって夢中で調べた。そして思った。

 

「この生き方なら、きっと俺もいける」

 

当時、週刊誌『SPA』の増刊号である『PANJA』という雑誌で、小沢剛や村上隆などのアーティストの紹介がされており、森岡は毎号それを見るようになった。次第に「美大」という選択肢が見えてきた。美術の専門的なトレーニングを積んでいない自分でも入れる所はないかと、改めて大学受験の本を隅々まで探すと、推薦試験が面接と作文だけの学科のある美大が大阪にあった。そして森岡は、晴れて大阪芸術大学に入学することとなった。 


5. 村上隆に見いだされ現代美術作家デビュー

 

大阪芸術大学で、森岡は学園祭の実行委員を務めた。ある年の学園祭に、世界的な現代美術家である村上隆が訪れ、森岡はその作品制作の手伝いをすることになった。村上は「森岡くんはどんなものをつくってるの?」と尋ねた。森岡が当時撮影していたポラロイド写真を何枚か見せると、村上はそれを気に入り、森岡は10代の終わりに現代美術家としてデビューすることになった。村上のサポートで、国内はもちろん海外でも展覧会を開かせてもらった。

 

大阪芸術大学を卒業した後、森岡は村上が立ち上げる「GEISAI」の手伝いをすることになった。「学園祭みたいなもんだから」と村上は気軽に言ったが、実際は数千万円の予算を動かし、その当時まだ閉鎖的だった日本の現代美術業界を横断するような一大イベントの立ち上げだった。いくら補佐役とはいえ、大学を出たばかりの森岡には荷が重すぎた。莫大なストレスがかかり、3回目のGEISAIで森岡は潰れた。村上の仕事をやむなく辞し、その後はアルバイトをしながら写真家として活動していたが、ちょうどその頃、世の中ではインターネットが普及し始め、IT業界がどんどん面白くなってきていた。森岡はここでアートから一度離れる決断をし、社会の中で面白い人と面白いことをするために、広告代理店やITベンチャー企業に入ってみた。しかし、森岡が期待していたような出会いは、そこには見当たらなかった。

 

「どんな業界でも、村上さんみたいな本当に面白い人たちはほんのひと握りしかいなくて、広告代理店やITベンチャーで『何か面白いことやろうぜー』と言っている人たちが、面白い人ばかりというわけでもないってことに気づきました」

 

6. 誰かの焼き直しはしない。島へ

 

その頃、森岡は「日本仕事百科」のナカムラケンタや「ナリワイ」の伊藤洋志、「まちづくり会社ドラマチック」の今村ひろゆきらに出会う。自分より年下の世代に、時代の先頭を走るだろう面白い人たちが出てきていることに、森岡は焦りにも似た気持ちを覚えた。

 

「このままじゃ相変わらず周回遅れの人生だぞ。一回きりの人生、誰かがやったことの焼き直しはしたくない」

 

もう一度、本当に自分が面白いと思うことをしようと森岡は思った。しかしその舞台はもはや東京ではなかった。森岡は故郷の香川に帰ろうとしていた。そこで運命が森岡を瀬戸内海の小さな島へ導いた。知り合いの知り合いがその島に空き家を持っており、森岡はそこでゲストハウスを立ち上げることになった。時は2010年。もちろん日本でゲストハウスという宿泊形態がメジャーになるずっと前のことだ。
 

小さな島で一際目立つ白い一軒家を借りた
 

7. いろいろつくって人にあげる

 

森岡は、世の中にまだないもの、需要が顕在化していないものであっても、自分が本気で面白い、ほしいと思うものは、きっと他の人も潜在的に求めているに違いないという確信を持っていた。

 

定期船もなく、自分たちの船でしか渡れない瀬戸内の島で森岡が手づくりのゲストハウスを始めると、意外にもけっこう客が来てくれた。ちょうど瀬戸内国際芸術祭の第1回が開催されるタイミングと重なり、幸運でもあった。芸術祭の島巡りのついでに、一風変わった人がたくさん森岡のゲストハウスを訪れた。やがてその客の中から「この島に移住したい」という人が出始め、20代〜30代の若い2人がゲストハウスに住み着いた。さらにもう1人が島の別の家に住み着き、いつの間にか向島の平均年齢は一気に若返っていた。

 
面白がって国内外から来訪客があった

ゲストハウスに住み着いた若者たちが運営したいと言い出したので、森岡はそのゲストハウスを彼らに譲り、自分は岡山県玉野市にある港町 宇野へと渡った。森岡が提案した宇野の地域活性化プラン「うのずくり」を自治体が気に入り、まちづくりに参画することになったのだ。かつて広告代理店時代に、地元丸亀市のシャッター通り商店街の再生プランを考えるため、時代に先んじてあれこれ勉強していたことが功を奏した。世の中にはちょうど地域活性の波が来ていた。森岡は地元の有志と共に宇野の活性化に取り組んだ。その一環で宇野にもゲストハウスをつくり、森岡は向島と宇野との2拠点生活をしながら、描いたプランを仲間と少しずつ形にしていった。

 
ゲストハウス現管理人のよっちゃんもゲストハウスに住み着いた一人

時を同じくして、不動産業界が熱くなってきていた。森岡は世の中が不動産ブームに沸くかなり前からmixiで「間取り図大好きコミュニティ」を立ち上げ、その会員数は19万人に達していた。また、2007年からは巷の不動産物件情報に潜む珍妙な間取りを人々と共に鑑賞するイベント「間取り図ナイト」の活動を続けている、筋金入りの間取り図マニアでもある。このタイミングで「表舞台に戻ろう」と森岡は思った。
 

間取り図関連の書籍も出て、師匠である村上の書籍と並んで置かれていて感動した。
間取り図ナイトは地方公演でも多くの集客を誇る人気ベントに

軌道に乗りつつあった宇野のゲストハウスを「うのずくり」の活動を共にしてきた共同創業者に委ねると、森岡は不動産業界に自らの道を切り開いていった。「まめくらし」の青木淳や、「別荘リゾートnet.」の唐品知浩、「TSUKURUBA」といった面々とイベントを共に行うなどの関係をつくっていく中で、森岡は「はてな」の創業者である近藤淳也と知り合う。ITの申し子のような近藤も実は、不動産に並々ならぬ関心を抱いていた。そして誕生したのが不動産エンターテインメント『物件ファン』だ。自ら企画したこのメディアに、森岡は来る日も来る日も誰より多くの物件紹介記事を書き続けた。ウェブサイト開設から3年後、PVは360万ページビューに達した。このメディアは不動産に対する世の中の既成概念を壊し、不動産を人々に解放する一翼を担ったと言っていい。

 

そして森岡は瀬戸内や宇野のゲストハウスと同様に、この『物件ファン』も、ゼロイチの立ち上げから軌道に乗せるまでを手掛け、自走し始めたのを見届けると、現メンバーに託して新たな旅に出た。

 

物件ファンは「不動産を嗜む」という文化を一般化させた
 

「日本の不動産業界をもっとオープンにしていくこと、住む人たちのリテラシーをちょっとずつ上げていくこと。物件ファンは、みんなが不動産を楽しむための石を投げ続けることができるメディアだと思います。今後の目指していく道筋はあるし、そこに対して自分なりの提案は残してきて、それがどうなっていくかは分からないけれど、ここからは違う力学が発生していくステージ」と森岡は言う。

 

その森岡が今、世の中に新たに生み出したのが『ソダテタ』なのだ。

 

8. ソダテタは挑戦者たちのベーシックインカム

 

「ソダテタは、10年くらい前からやりたいと思っていました。でもちょうどその頃、クラウドファンディングのサービスが登場したので、自分がやらなくてもいいかなと思っていたんです。ところがクラファンは私が想像していた方向には多様性が生まれてこなかった。だから、もう少し柔軟性のある応援のプラットフォームをつくろうと思いました。世の中には自分自身の挑戦に対して淡々と地道に頑張っている人がいて、それを第三者がドキュメンタリーにすることで、人々が心を寄せていけるようなメディアがあると良いと思ったんです」
 

応援のさらなるエンタメ化を目指して。
 

具体的には、価値ある挑戦をしているにも関わらず、自分ではクラウドファンディングに名乗りを上げては行かないような控えめ、あるいは不器用な人に対して、ディレクターが「推し活」することによって応援の輪を広げていく仕組みがソダテタだ。「応援をエンタメ化」することによって、人々の共感や好意を軽やかにギフトに変え、「この人がいる未来が楽しみ!」と挑戦者を支えていける社会を目指す。

 

「光が当たっている人も、光が当たっていない人も、どちらの挑戦者も尊いと思うんです。挑戦は失敗することもあるし、時間がかかることもあります。挑み続けている人たちがいるから未来があるのに、その人たちが成功しなきゃお金を払ってあげないなんて変じゃないですか? 挑戦者たちが見ている未来の光景こそ社会にとって価値があるもので、そこをお金や物などで、みんなで支えていける環境をつくりたい。ビジネスになるかどうか、利益になるかどうかだけが価値ではないですし、そういう資本主義を再編集する部分を、共感や応援を核にみんなで共創していきたいと思うんです。ソダテタが挑戦におけるベーシックインカムとして機能するように、社会の公器にしていけたら」

 

9. 森岡さんの「挑戦」とは?

 

森岡は自身のこれまでの道のりを振り返り、生身の実感をこう吐露した。

 

「現代美術に始まり、GEISAIや広告業界での仕事、ゲストハウス、まちづくり、物件ファンまで、世の中にまだ無いものをつくるという毎回初めての挑戦を何度も行ってきた中で、やっぱり心底思うのは『応援してくれる仲間がもう少しほしかった』ということです。挑戦しようとしていることに理解を示してくれて、心を寄せてくれる仲間の存在は大きい。ソダテタは、お金や物を集めるだけでなく、仲間をつくっていけるメディアにしたいと思うんです」

2軒目のゲストハウスにて。何かを立ち上げるたびに応援してくれる人は少しずつ増えてきた。

インタビューの最後に、森岡にとっての「挑戦」についてき聞いた。

 

「基本的に誰にとっても人生は挑戦の連続なんだけど、そこに無自覚に生きることは簡単で、『社会』という立派なものが存在しているから、それに乗っかっていけば『まあまあ大丈夫』みたいなところにはたどり着くんじゃないかと思ってしまう。10年後のまあまあ大丈夫そうな未来のために、今の自分の人生の時間を切り売りしたり、消費してごまかしたりしながら、自分自身の本当の欲求を我慢して生きてしまう。でも、明日死ぬかもしれない、今死にます、となった時に、その人生は満足なのかなと。

 

創造的な人生を、今も、10年後も楽しんでいるためには、挑戦を楽しんでいくことが大事で、私は10年後も新しい挑戦を手に入れられる人、挑戦し続けるためのエネルギーを自分自身に投下し続けられる人が幸せなんじゃないかと思います。ソダテタによって、私程度の物差しではジャッジできないくらい多種多様な挑戦と応援が日々行われていくような仕組みを、世の中につくっていきたい。

 

ソダテタを育てることを通じて、仲間がほしかった私が、仲間をつくっていく。それが私の今回の『挑戦』かもしれません」
 
 
  
 
(interview/text by 角舞子)

角 舞子/文筆家/2021年5月に天橋立にハーフ移住し、畑つき民家で新たな暮らしの実験中。

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以上です。

とうことで、
ソダテタはこういうことを考える人間が考えたwebサービスだということを
ご理解いただけたでしょうか。

もしよろしければ
もっとこういうサービスは?!とか
自分も手伝いたい!とか
仲間になってくださる方と出会いたいと思っています。

よろしくお願いします。

この記事のディレクター

アーティスト/マドリスト/プランナー/うどんの人

森岡 友樹

ちょっとおせっかいなくらいでちょうどいい。

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