馬に乗って嫁にやって来た一人の女性が「何にもない」と言われがちな寂れた温泉街に「何でもできる複合施設」を作るお話

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山﨑香菜子(赤倉編集室、編集者)
1983年、宮城県白石市の山の中生まれ。多摩美術大学でデザインを学ぶも、暮しの手帖の初代編集長・花森安治に憧れ編集の道へ。悩みながらも、常に動き回って生きてきた。様々な地域を点々と生きてきたが、2017年、終の棲家となるであろう山形県最上町へと嫁いだ。閉鎖的でなにもないと思っていた町が、実はスルメのように味のある人達が多く住んでいることを知り、面白くなってきているところ。現在、町の人材を更に活かすための場所づくりを進行中。寂れた赤倉温泉を舞台に、住民と旅人、多業種、多世代が交差していく場を目指す。

 

田舎の端っこから、新しい暮しのうねりをつくる

これが今回の主人公となるune(うね)。昭和61年に最上町産木材のみを使用して建てられた

 

une(うね)という場所を田舎の片隅につくった。一言でいうと何?と聞かれるが、「う~ん、強いて言うなら複合施設?」という行政っぽいつまらない表現になってしまう。でもニュアンスが全然違うのでモヤッとしてしまう。

「何をする場所」というより「何でもできる場所」をつくりたかった。私や誰かが思いついたアイデアを実現できる場所。与えられたものを受け入れるだけでなく、生み出していく場所。
 

uneの中庭。木の遊具や焚き火をして楽しめる。いずれサウナも置きたい

ただ、最初から「場所ありマス」と漠然と伝えても戸惑うと思うので、コワーキングスペース、レンタルキッチン、ワークショップスペース、貸さない図書館、お土産屋、イベントスペース、こどもの遊び場、などの機能を持たせることにした。ここから私も予期しないような使い方が広がっていってほしい。

 

建物内はなかなか凝った作りで、光の入り具合も気に入っている

 

温泉街という立地を活かして、様々な場所から来た大人から子どもまでが遊び合い、学び合っていく。そんなことが自然と生まれていくような場所を目指している。

 

田舎嫌いの子どもだった

私は、航空写真で見ると、そんな山の中に人住んでるの?というような場所で育った。父親が選んだテレビ番組しか見られなかったので、同級生の話題についていけず、ひたすら自然の中で遊ぶか漫画や音楽にのめり込んでいた。田舎の人間関係も嫌いだったし、同級生も苦手だった。

自然と都会への憧れは強くなり、高校からは仙台、大学は東京へ進学する。そんな田舎嫌いの私だったが、結局東京でも田舎的な生活をすることになる。

 

山﨑自身が育った田舎。家はこの写真の真ん中くらいにある

都会がこわい

大学に入学するも、授業についていくのがやっと。おしゃれな同級生の輪の中に入っていけない…。結果、隅っこでしょんぼりしていた。そんな時、「神田に行ってみない?」と、私の肩をトントンと叩いてくれた友人が、全く新しい世界への入り口へ連れて行ってくれた。それは、2003年に始まったセントラルイースト東京(通称:CET)という、当時空洞化が始まっていた東京の東側を舞台に、空きビルや空き家をギャラリー化するというアートイベントだった。そこで使われた空き家をリノベーションして住むというプロジェクトに興味があり「今の状況を変えられるなら」という思いだけで飛び込んだ。

テッチュウ改装前。山﨑は左から二番目。
東京を意識しすぎて無駄に派手な服を着ていた黒歴史時代(左手奥)

 

 

元タオル工場だった木造2階建ての本当にオンボロな家で、室内のど真ん中に数本の鉄柱が補強で入れられていたので、建物は「テッチュウ」と名付けられた。そこに集まっていたのは大学も性別もバラバラの10人。当時はシェアハウスという言葉はなく、周囲からの理解も得にくかったが、大家さんから「印鑑証明付きの保護者の承諾書と、町会に入ること」を条件に貸してもらえることになった。「よくわからない若者が集って住み始めた」と、最初はかなり怪しまれたものの、神田祭や、町会の縁日を全力で手伝っていたら町の皆さんも徐々に受け入れてくれ、いつの間にかテッチュウが町のサロン的な場になり、頻繁に宴会が開かれていた。

 

閉鎖的な下町に若者を入れることで、町会にも新たな視点を持って欲しいという、テッチュウの大家であり、CETの実行委員長であった鳥山和茂さんの強い思いが込められたプロジェクトだった。

この考え方は、今でこそ当たり前になってきたけれど、当時はかなり最先端だったのではないかと思う。

 

テッチュウ解散後も故郷に帰るように、神田祭と縁日は毎年参加している

町会に入ってみれば、そこは下町人情が溢れ、人を育てる仕組みが伝統的に受け継がれてきた。祭りを中心に町が形成され、田舎より田舎臭い。私の故郷もこんな関係性だったら好きになれたかもしれない。

テッチュウと、町会での経験は私の基礎になっている。

 

モヤモヤと葛藤の20

大学時代、多感な時期だったので、漠然とした世の中への違和感があった。そんな時、花森安治氏が編集していた「暮しの手帖」に出会い、衝撃を受けた。学んでいたグラフィックデザインではなく、編集へと興味が移行していく。「社会を変えられるような雑誌を作ってみたい」。暮しの手帖社でアルバイトの機会を得るも、松浦弥太郎編集長へ切り替わったタイミングでクビになり、大学卒業後は編集プロダクションやタウン誌の会社などを転々としていた。

 

そんな時、本屋でとある雑誌のコピーが目に飛び込んできた。“地方がいい。” そのRe:Sという雑誌を開いてみると、私の想像を超えた内容が広がっていた。行きあたりばったりの旅の中で出会った人やお店などを突撃で取材し、そのまま記事にするという見たことのない手法の編集だった。この人は現代の花森安治だ! ちなみに私も見様見真似で地方の知り合いのところへ取材に行き、冊子化しようと試みるも記事が全く書けずに挫折した。

鶴ヶ島時代
畑を耕したり、移動販売したり、都会へ行商に行ったり様々実践してみた

 

都会の真ん中で編集していても、地方のことは伝わってこない。ならば色んな地方の現場を見てみよう。能力もないのに理想と夢は広がり続け、埼玉県鶴ヶ島市や、兵庫県但馬地方で食や農業に関わる仕事をしてみた。自然の中で、美味しいものが側にあり、面白い人達がいる環境で、結構生き生きしていたと思う。でも、その最中に発生した東日本大震災のことが気になっていた。

 

 

 

東北へ

一度は背を向けた場所である東北。でも、紛れもない私のふるさと。何ができるか分からないけれど、とにかく戻ろう。運良く仕事も見つかり、東北芸術工科大学グラフィックデザイン学科の副手として働くことになった。東北、そしてデザインと再度向き合える有意義な時間。そして風景が美しく、何を食べても美味しい山形の魅力に取り憑かれてしまった。

調子に乗っていた副手時代(写真右下)

 

山形に住むうちに、夢はより具体的になっていく。

いつか、小さな町の片隅に、小さな編集室を作りたい。そこには、地域のおばあちゃんや旅人が集まってきて、おばあちゃんの漬物をお茶請けに話に花が咲いている。私はその様子を書き留め、小さく発信し続ける。

ただ、全く実力が伴っていなかったし覚悟もなかった。それなのに意地だけはあって、何度も人と衝突した。今思えば考えも浅かった。巡り巡って山形で出会ったRe:Sの藤本智士さんに見抜かれて号泣した日もあった。

憧れの藤本さんと。大学職員時代に藤本さん企画の展覧会を一緒につくる機会に恵まれた

 

 

大学職員の任期終了後、運良く県内の印刷会社から企画営業の仕事をしないかと声をかけていただき、実践で編集の経験を積むことができた。やりがいのある仕事で、結果も出てきたところだったが、「場所」を持ちたいという思いを断ち切ることは出来なかった。

たまたま取材で泊まっていた山形県の秘境・肘折温泉と縁が繋がり、色々割愛するが、そこで出会った最上町赤倉温泉の土産屋が実家だと言う男性と結婚することになった。寂れた温泉…、土産屋…、これは私が探し求めていた場所なのでは──。

 

 

 

お世辞にも表面的には素敵な田舎ではなかった

左が2012年に倒産した赤倉で最も大きい旅館。右が2年前に廃業した嫁ぎ先の土産屋

 

印刷会社を退職し、勢いで嫁いできたものの、赤倉温泉、想像以上に寂れている…! 土産屋には月に数人しかお客が来ない…。

まずはこの町のことを知ろう。そこで、割と自由度の高い内容で募集していた地域おこし協力隊に着任。よそ者だから魅力のひとつやふたつ、すぐ見つかるだろうと思っていたのだが、町並みは普通の現代風の民家が多かったりして特徴がなく、絶景と言われる場所もない。最上町ならではのものが、本当に少ない…。

 

何とか探しだしたのが、クセ強めの伝統行事。病送りという行事では、ある集落の軒先にクセ強めの藁人形が飾られるのだが、知らない人が通りかかったらかなり怖いと思う。でも、その行事には集落を守る祈りが込められていて、住民同士を結びつけている。

いろいろと、クセ強め

 

半世紀前に途絶えてしまった「むかさり行列」という伝統行事が気になり、最上町の生き字引と言われる90歳の善男さんに話を聞いてみた。すると「長持唄を歌いながら進む花嫁行列を地域の人が邪魔する」というのだ。いちいち止めては、長持の竿を押さえて、「ここに嫁ぐ覚悟はあるのかい」という内容の「止め唄」を歌う。外から嫁いで来るよそ者を受け入れるための儀式で、この地域の関係性が見えてくる面白い行事だ。

そもそも結婚式にあんまり興味がなく、やらないつもりだったのだが、これならやってみてもいいかもしれない。しかも温泉街なので、招待客を泊めることもできるし、宴会もできる。地域全体を発信するツールにもなる、ということで復活させることになった。

おばあちゃんや、地域の子どもたちに止め唄を覚えてもらい、老舗旅館の大広間は親戚一同の顔合わせの場に。いい感じの木造の公民館(これが後のune)を披露宴の場にした。

なぜか花嫁自身がウェディングプランナーを兼務しながら、地域の有志メンバーと手探りで結婚式を作り上げたのだ。

 

伝統的に馬に乗るという記述はなかったが、近所に住むペットの馬を貸してもらった
 

当日は招待客以外にも地域でお世話になっている方や、新聞で情報を知った老人ホームのおばあちゃん、アマチュアカメラマンなど、ざっと300名近くは赤倉温泉に集まったと思う。かつて夜中まで下駄の音が鳴り止まなかったという赤倉温泉を垣間見ることができた。

 ここがuneのホール。数年後ここを借りることになるとは想像してなかった

結婚式の3日後、妊娠が発覚。つわりも軽く、(禁酒以外は)割と快適な妊婦時代を過ごし、

2019年1月に餅のような長女を出産した。

餅のような長女は、もうすぐ3歳になる

出産後、娘と向き合う中で思ったことは、親は子に価値観を押し付けたりするのではなく、心豊かにのびのびと生きられる環境を整えることが使命なのだということ。その中には、食も、環境も、人との関係性も全部含まれている。

 

地域の人達が地域を好きだと言えるように

育休明けの2020年4月。新型コロナで人を集めるイベントもできないし、とにかく色んなことを自粛せざるを得ない状態になった。本当の意味での「地域おこし」って何だ? と改めて考えた時に、移住者が増えたり観光客が増えることよりも「地域の人が地域を楽しんでいる状態」が、一番自然だという考えに至り、始めたのが「小報もがみ」というA4白黒2ページの媒体だった。

インパクトのあるイラスト(杉の下意匠室)のおかげで多くの町民に読まれた

地域の人に最上町の魅力を聞いても「なんにもない」と言われるし、私も表面的に「なにもない」と思っていたが、深く掘り下げれば面白いものが見つかるんじゃないかと、近所のおばあちゃんや農家、主婦など、地域の人にインタビューを始めた。蓋を開ければ(いい意味で)変な人だらけ。雪深い、決して便がいいとは言えない町をポジティブに生きる人の強さを、同じ町のみんなで共有したくて、協力隊の権力を使って町内全戸に配布させてもらった。するとすぐに反応があり、街なかでよく声をかけられるようになった(保守的な東北の田舎では珍しいこと。だからより一層嬉しかった)。

 

色んな人達との出会いのおかげで、最上町は人生史上最も居心地のいい場所になった。豪雪ですら、町の人達の除雪スキルが高くて雪道も走りやすい! と絶賛できる。

編集も、昔に比べたらだいぶ自信もついてきた。誰もが気軽に立ち寄れる編集室を作るという夢の実現まで、あと少し。家の使っていない土産店スペースで小さく始めるつもりだった。

 

物件との出会い(突然理由もなく呼び出されリンチされるかと思った)

そんな日々のなか、突然ある人から電話がかかってきて、赤倉にある公民館施設「お湯トピアもがみ」に呼び出された。一見怖そうな土木会社の社長だったので(ほんとは優しい)、ちょっとビビりながら到着すると、飲み物を渡され「どう思う?」と一言。目の前にそびえ立つ木造の山小屋風の建物は、私がむかさり行列の時に披露宴会場として使った場所だった。この頃には公民館機能は近くの廃校になった小学校に移されることになっていた。

私「いいですよね~。最上町にある建物で一番いいです」
社長「どう使ったらいいいと思う?」
私「ホールで小さなライブやったり、ワークショップしたり、最上町は図書館がないので本を読める場所も作りたいですね。温泉に長期滞在して、ここで仕事ができるコワーキングスペースもいいですね。あと、量り売りのショップとか、旅人や地域のおばあちゃんが料理を出せるシェアキッチンもいいかもしれません…」
社長「だよねー! それ、やってけんねが」
私「あ、やります!」

と、こんな流れで私の思い描いていた夢は、突如広がっていくことになる。

 

借金してみたかった

町に交渉して、なんとか貸してもらえることになったものの、雨漏りや床の痛みが酷く、改修にはかなり費用がかかる。現状のままの貸し出しということなので、修繕は自分でやらなければならない。結婚前「宵越しの金は持たねぇ(持てねぇが正しい)」をポリシーで生きてきた私に、そんなお金は無かった。なんとか改修費の1/2が出る補助金を見つけたが、1200万のうち、半分は自腹だ。「開業する時は小さく始める」と、あらゆる起業の本にも書いてあったが、立ち止まっていては何も始まらない。600万背負うことで自分を追い込んでいこう…。と、言い聞かせ借金を決意。(もちろん言い出しっぺ?の社長も雨漏り対策や除雪問題などをサポートしてくれている)

 

命名「une(うね)」

ローマ字なのに、自然と「うね」と読ませるロゴ(杉の下意匠室)

 

施設の名前は、正直自分の娘の名前を決めるより悩んだ。1年以上悩み続けた。いくつもの案を書き出し、似たような名前の施設はないか検索すると、だいたい被る。

ふと、「うね」という響きが頭をよぎった。ローマ字のuneはフランス語で「1」で、最上町の「最上」を表現できる。それは、畑の畝でもある。ここから色々なことが育っていって欲しいという願いを込めた。そして、ここから新しい暮らしのうねりをつくっていきたい。

と、かっこいいことを並べ立てたが、一番は呼びやすさ、覚えやすさ。「うね行こう~」「うねる?」くらいの日常の場になって欲しい。

 

この規模を本当に個人が運営できるのか

現在は工事と並行しながらプレオープン中。試験的に木のおもちゃや遊具を置いたところ、たくさんの子どもたちが遊びに来てくれるようになった。たまたまuneで出会った知らない子同士が仲良くなり一緒に遊んでいる姿を見ていると、すでに成功なんじゃないかと錯覚するが、運営を続けるための仕組みをきちんと整備していかなれければならない。

近所の中高生も手伝いに来て、全力で子どもたちと遊んでくれる
キックオフイベントには町内だけでなく、隣接する宮城県大崎市からも集まってくれた

 

そして、やはり主体的に関わってくれる人材を増やしていくことが、これからの課題だ。

でも、どこか楽観的に考えているところもある。無理やり人を呼び込むよりも、のんびりとゆるやかに訪れた人との関係性を作っていきたい。その先にある未来を私自身がとても楽しみにしている。

夢の編集室は「赤倉編集室」と名付け、今年11月に起業した。もちろん、uneに事務所を置く。

 

 

■une HP

http://une.life/

この記事のディレクター

アーティスト/マドリスト/プランナー/うどんの人

森岡 友樹

ちょっとおせっかいなくらいでちょうどいい。

#東北 #山形 #場所づくり #地域活性

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