鎌倉で、僕が通う町の銭湯。最後をむかえる日までが清水さんの挑戦

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清水湯店主/清水 博士(しみず ひろし)さん
昭和34年生まれ 鎌倉市立第一小学校、鎌倉市立第一中学校卒業、鎌倉学園高等部卒業 生粋の鎌倉育ち
経営情報学を学ぶことが出来る産業能率大学の1期生として学ぶ。卒業後は大手事務機器メーカーの営業マンとして社会人生活をスタートさせ 早期退職をする59歳まで銭湯との二足の草鞋で37年間勤め上げる。現在も、妹さんと奥様との3人で清水湯の看板を守り続けている。
                              

「最後をむかえるその日まで、“あって良かったと思ってもらえる銭湯”でありたい」   
写真に写ることさえ恥ずかしがる博士さんが語ってくれた決して多くない言葉の中で、最も私の心に残っている言葉だ。

鎌倉駅東口(通称 表駅)から歩くこと15分ほど、材木座海岸までは徒歩5分ほどの鎌倉市材木座1丁目に“これぞ銭湯!”という外観をした清水湯がある。 現主人である清水博士さんのご両親である父、庄次郎さんと母、扶美恵さんが昭和30年に創業された銭湯だ。

全盛期には5、6軒あったという同地域の銭湯のうちの最後に残された一軒

男女共用の入口に入り、カウンターで入浴料を支払うフロントスタイルにとって代わられつつある、古くからの番台スタイルをいまだ貫く清水湯。通りに面した入り口にかかる男湯と女湯の暖簾をくぐった向こうにある引き戸をあけると番台があり、天井高の高い寺社仏閣づくりで作られた脱衣所が広がる。

懐かしい雰囲気が各所に残る














そう、少し身をかがめ気味に暖簾と引戸をくぐった先にあるこの大空間がいつも私を特別な気持ちにさせてくれるのだ。脱衣所の衣類入れや柱にかかる振り子時計、あの時代の空気がここにはまだあると感じられることもきっと大きい。

書かれた文字の一つ一つを目で追ってしまう。












もちろん、脱衣所だけでなく浴室も開業当時のものが多く残る。特筆すべきはこの創業時から変わることのない状態で維持されている九谷焼のタイルだ。

今ではもう手に入らない特別なタイル

そしてもう一つ、少し珍しいのはこの浴槽の配置だろう。左右にカラン、そして浴槽が中央に配置されタイル画があるスタイルは関東では珍しいスタイルの銭湯と言える。

関東の銭湯の多くは奥に浴槽、手前に体を洗うスペース、という形

「基本的にうちは半径500m内くらいに住んでいる人のためにと思って営業している」と、博士さんが教えてくれた。一方で意外なほど年齢層はばらける。見ていると30代、40代の親世代が子どもを連れて訪れていることも多い。「自分も子どもの頃に親に連れられてきた時の楽しかったって思い出から自分の子どもにも大きな風呂に入る気持ちよさや楽しさを体験させたくて来てくれているみたい。今はここを離れちゃった人たちも帰省の度に寄ってくれたり、いろいろな世代の人がそれぞれのペースで来てくれてるね」と、奥様が嬉しそうに話してくれる。

ついで妹さんも「地域のお祭りの時にお神輿を担いだ後に決まって入りに来てくれる人もいて、今年も元気に来てくれたなと嬉しくなる」と教えてくれる。下町感の伝わるエピソードだと思うと同時に、訪れてくれるほぼ全ての地域の人たちの顔を覚えているお二人の仕事への姿勢も伝わるエピソードだなと思う。

親子連れの来店時には親ごさんがゆっくりとお風呂に入れる様にと、常連さんがお子さんを見てくれることもあるのだとか。
地域の方にとっての憩いの場、交流の場としての役割は失っていない。昔ながらの懐かしい”地域の日常”がここにはまだあるのだ。

 

こういった“銭湯”という、商売であり地域コミュニティのハブをなす文化施設がかつて日本中のいたる所に存在した。今から50年ほど以前、昭和40年代ごろにはニョキニョキと空に向かって伸びる高い煙突は町の付き物と言えた。しかし、その頃をピークに銭湯利用者の減少に伴う形で銭湯は町から姿を消し続けている。
「うちは(先代が)この土地にやってきて魚屋として働いて稼いだお金を貯めてこの銭湯を開業して、本当に朝から晩まで働いていたあの時のまま、内装も営業スタイルもできるだけそのままでやっていくとずっと思ってきた。私も子どものころから両親をみながら手伝いながら育ってきたから、そうすることが当たり前だと思ってきた」と博士さん。

清水湯も人員の都合から、1999年に薪で沸かす方式からボイラーで沸かす方式に変更せざるおえなかった。

しかし清水湯を含め、多くの銭湯の経営は相当に厳しい状況にある。昨今のサウナブームや銭湯ブームもあり、一部の若年層を中心にレジャーとしての銭湯に注目が集まり経営が上向いている所もある。それでも大勢としてはやはり銭湯利用者は減り続けているのが現状だ。昭和48年の神奈川では、ひとつの銭湯に対して平均300人のお客さんが通っていたが、令和2年には61人まで減少。総じて銭湯の売上、経営状態はやはりどこも厳しいものとなっていると言える。

鎌倉へ訪れた先頭好きの旅人がおふろセットを購入して入浴することも珍しくない

また、合併やさまざまな形での事業継承などもなされたりと一部で注目を受ける銭湯の事業継承ではあるが、それでもやはり全体的にみると個人事業主として営業してきた銭湯の廃業が相次ぎその数はどんどんと減少している。
まず、銭湯の設備修繕に多大なコストがかかることが経営の大きな課題となる場合が多い。雰囲気の良い銭湯の特徴であるあの大きく古い建物や大きな浴槽にはる大量のお湯を沸かすボイラーも、耐震や修繕などの側面から見ると大きなリスクとなる。

博士さんは言う。「耐震や改修をするなら一億円は必要だと言われた」現在の利用者数とその売上だけで支払うには莫大と言える金額だろう。
しかも、もしリニューアルをしたとしても、カランやタイルなど今の趣をもった姿の銭湯として継続することは難しく、全く別の銭湯のようになってしまう。

また、銭湯減少には銭湯に関わる法律も一因と考えられる。
厚生労働省が所管する「公衆浴場法」では銭湯の個人経営者の事業継承に一定の制限を設けているのだ。
現在個人事業主として銭湯を経営している場合、その事業を継承できるのは相続人でなければならないとある。
借金をしてでも銭湯を継業したいと願う銭湯好きな若者は少なからず居るものの、彼らにはその權利がなく、他方で相続人である経営者の子どもたちは既に地元を離れ他の仕事に就いてキャリアを作っていることが多かったり銭湯の経営を引き継ぐ意思を持たない場合が多い。他にもさまざまなケースがあり一概には言えないが、先に述べたような理由などもあいまって銭湯の数自体は間違いなく今後も減っていく。

「そもそも、銭湯を経営していた親が子どもにこれだけの負債を負わせてまで自分たちが今しているような苦労を負わせることはしたくないと考え、自らの代で銭湯を閉業するところも多い」と博士さん。

そういう博士さん自身も実は過去に廃業を考えたときがあったと言う。
「父についで10年前に母も亡くなり、いろいろと考えながら二週間ほど営業を休んだことがあって。でもその時に常連さんから手紙をもらったんです。『ここがなくなったら生き甲斐がなくなる。営業が大変なのは分かる。だけど1週間に1回でもいいから続けてほしい』って。それまでは週一の休み以外は休んだらダメだと思っていた。だけど、母が亡くなってその営業スタイルも難しくなったのでこれはもうさすがに廃業するしかないと考えていたところだった。でもユルユルとでも、できるだけ今の銭湯の形のままで続けようと考えるきっかっけになった。」

清水湯は現在、週6日だった営業日を週4日に減らし、23時までだった営業時間も21時までに短縮してできる限りの永続を目指している。
そんな清水湯の営業成績は天候にも左右される。雨が降った時には、営業経費としてかかってくる光熱水費を下回ることもあるとのこと。もちろん、そういう日には博士さんの人件費など出るはずもない。しかし例えそれが分かっていても営業日数が少ない中で来て下さるお客様がいる限り、どの様なことがあったとしても「営業を予定した日はお店を開ける」をモットーとしている。

永続するために銭湯の営業時間と営業日を減らしたとしても、博士さんの実直な経営姿勢はかわらない。 現在、番台には妹さんと奥様が座り、博士さんはお客さんと直接関わる機会は少ないが、お客さんの顔が見えなくてもお客さんのこと思いながら裏から清水湯の運営を支えているのだ。

そう、銭湯をとりまく状況がこのような中で博士さんが選んだ未来への挑戦は、リニューアルという形で再生をするのではなく、できるかぎり今のままの姿で変わらず地域の暮らしを支える銭湯として、自身の体力が続く限り少ない営業日になったとしても『ゆるゆる』と継続して運営をするというもの。そうして地域の方、訪れてくれた方々にいままで通り“あって良かったと思われる銭湯”として営業をしていくというもの。
「自分の人生と共に歩んだ今のこの姿の銭湯が大好き。それはきっと家族もお客さんも同じで、今の自分があるのも、清水湯をここまで続けることができたのも家族やお客さんの支えがあったからこそ。清水湯最後の日まで家族とお客さんと一緒にできる限りこの姿のまま続けていきたい。」静かに、照れたようにポツポツと話してくれる博士さんの言葉をまとめると そんなことを語ってくれていたように思う。

決して派手さはなく、普段は極端にメディア露出を好まず、表方の仕事は家族に任せ、修繕が必要になれば自ら直し、自分は裏方に徹し、ただ実直に毎日をお客さんと自分自身の人生のために積み重ねていく博士さんと家族の皆さんの思いと挑戦に対し、清水湯のヘビーユーザーの一人として感謝を伝えられたらと考え、この記事を書かせていただきたいと博士さんに申し出たわけだが、その際も照れてなかなか首をたてにふってくれなかった博士さん。

何度か頭を下げているうち「記事を読んだ人が訪れてくれて、のちのちになって『鎌倉に来た時にふと訪れることが出来る良い感じの銭湯があったな。』と思ってくれる人が一人でも増えるのも嬉しいものだな」と考えていただけるようになり、今回の記事化をなんとかお許しいただいた。どこまでも人の為、である。
   
清水湯最後の日まで続く清水湯の挑戦に、私も少しだけでも参加させていただけることを光栄に思う次第です。これからも応援させていただけたらと思っております。

 

 

 

取材・文・写真撮影(3・4・5・8・13・14枚目)/木村 歩
写真撮影(3・4・5・8・13・14枚目以外)/こまつ あかり




<参考リンク>
 http://shonan-garden.com/?p=20414

 

この記事のディレクター

銭湯はしご酒研究家/町歩き好きな人

木村歩

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#湘南 #鎌倉 #材木座 #ライフスタイル #世代間交流 #コミュニティスペース

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