人の心を知りたくて汎用人工知能(AGI)を独自開発をするノマドワーカーが結果的に社会をクリエイティブしていく。

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矢野さんは不思議な人だ。初めてお会いしたのは地方のゲストハウス。その時に彼はもう既に自分の家を持っていなかった。比喩表現としての”旅暮らし”ではなく本当の意味での”旅暮らし”。持てるだけ、バイクに詰めるだけの荷物を持って国内外を移動しつつ、いく先々でパソコンを開き、仕事をし、休みには町を歩き、地域の人たちと交流し、そうしてまた次の場所へ行く。まだ「ノマドワーカー」という言葉が一般化するよりも以前に、ワークだけに留まらず暮らしまるごとノマド(遊牧民)のように生きていた。

 

「ゲストハウスの長期滞在割引なんかを使えば、東京でちょっと良い部屋に住むより安くすむし、部屋も掃除してくれてシーツは洗濯してくれて、Wi-Fiも無料で、って実はお得なんですよね。」
そう言って笑っていた矢野さんのことを変わり者だなぁと思いながらもそれから行く先々のゲストハウスで再会したり、お互いの道中で近くにいたら遊んでもらったりと仲良くしていただいていた。

矢野さんが滞在するゲストハウスの寝室はドミトリーが多い

そんな世界中をうろうろしている矢野さんもコロナ禍ではさすがに大人しくしてるのかな?と思っていたら「こんな時だから、ちょっと前から作りたかったAI研究のラボというか、作りたいと思っているんですよね」という事だったので興味が湧いて話をじっくりと聞いてみたところ、実は矢野さんのノマド暮らしには壮大な計画への挑戦の過程で、その過程によって”結果的に”社会を変えていっている構図が見えて来た。

 

 

という事で、今回は矢野さんという人が人生をかけて本気で取り組む研究と、その道程で何が起こっているかを知ってもらい、いかに挑戦というものが尊いかをより理解してもらえたらと思っている。

 

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矢野さんは仙台に生まれ、医学部を目指して三浪した後に東北大学理学部に入った。

「父が医者で母も医療従事者だったのもあって、医者である父親からは『おすすめしない』とは言われたけど、止められもしなかったので医者になろうと思ってました。ずっと近くでみていて大変そうだったのもあって”父に憧れて”というのではなかったですが、医療系の職業の中だったら医者かな、という選び方でしたね」

矢野さんの幼少期。家は捨てたが大切な写真や手紙はデータで全て残している。

父母が大学で出会い結婚しその友人知人も皆医療系。そんな中で過ごしていく中で矢野さんが医療系の進路を目指す事は自然な流れだったのだろう。

「見た事も聞いた事も無い職業を選ぶのは怖かったんだと思います。高校生で世界も狭い中での選択だったのでとくに。」

中学生のころ


 


しかしその自然な流れの中で、自ら選んだ道があった。それが”脳の研究”だ。

「医者になるって考えていく中で、臨床医より研究の方に進みたいなと思っていましたね。意識とか、自分ってなんだろう?とか、心ってなんだろう?っていう誰もが一度は考える事をこじらせているんだと思います。でもうちは四人兄弟で、私学の医学部は無理。父も四浪して医学部に入ったけれど、さすがに四浪は難しいだろうと三浪で医学部に進むのは諦めて東北大の理学部に進みました。家から30分と近かったですしね。」

 

そう言って笑う矢野さん。

中学生のころ

しかし、このいわゆる挫折が矢野さんの人生を変える。

 

「医学部を諦めることにはなったのですが、それでも脳の研究は諦めたく無いって思ったんですよね。でその時にはじめて脳の研究をしたいという気持ちを自覚しました。医学部の面接には人間性を見るための面接が必ずあるんですけど、そこで毎年毎年『人助けしたい!』と言い続けて落とされていたので、医学部を諦めた時点で『よし、もう人助けの為に動くことはないぞ!』と決めたんですよね。」

 

良い意味で目標と姿勢が絞れたわけだ。

 

「大学でも脳研究がしたくて、四年生で脳研究の研究室に入って初めて脳研究の現場に触れられることができたんですが、そこでは基礎研究が主で、僕が求めるような研究ができる場所ではなかったんですよ。この学習行動にはどうやら脳のこの部分が関わってるらしいぞ?と調べていくような基礎研究はもちろん大事で、それはわかっているのですけどね、これを積み重ねていても自分の命題である心や意識ってなんなのか?ってことが分かるまでに500年はかかるなと思って。自分は自分が生きてる間に意識や心がどういうものかを知りたいんです。」

 

基礎研究が求める成果と矢野さんの求める成果がうまくマッチしなかったわけだ。そこで矢野さんは再び人生の舵を大きく切る。

 

「その当時、お金がなくてパソコンを自作していたんですよ。今でこそ安価でそこそこ良いパソコンが手に入りますが当時はそうじゃなっかったんでね。それで作っていくうちに段々とパソコンの仕組みが分かってきたんです。それでひょっとして意識や心も自作してみれば理解できるのでは?と思ったんです。」

 

今から15年ほど前。今のような人工知能(AI)ブームが来る以前のころだ。

 

「その頃は一つ一つのプログラムを積み重ねて知能のようなものを動かしていて、自ら学習して最適化するようなものでなかったんです。まだシーマンとかゲームの世界で少し取り上げられる程度。なのでAIで食っていくっていう選択肢がまだなかったんです。でもプログラムの知識さえつければAIが作れるらしいということは分かって、AI系の大学院に行くことも考えたんですが、大学院の2年間がプログラムの勉強だけで終わるなと思ってやめました。」

 

当時の矢野さんはプログラムの概念は知っていても実際に具体的なスキルがあるわけでないという状態。それでも働きながらプログラムを勉強ができると考え、今も働くソリトンシステムズに入社することになる。ソリトンシステムズはITセキュリティを中心に様々なサービスを提供する東証一部上場の有力企業だ。そんな企業にプログラムの具体的な能力もなく入社して大丈夫だったのだろうか。

美馬市の広告会社併設の宿 AD LIVのワークスペースでの仕事風景

 

「ほら、僕にはAIを作るっていう具体的な目標があったので、漠然とプログラムを勉強したり仕事したりするよりもモチベーションが高かったんですよね。なのでその辺りは問題なかったです。特にプログラムは新しいことを覚えていきつづける仕事。過去にどれだけ勉強したか?ではなく 今どれだけ勉強しているか? が大切なんですよ。だからプログラムの技術は同期の中でも伸びた方だと思います。なんだったら昇進もしましたしね(笑)」

 

AIを作れるようになるためには必死だったわけですね。

 

「ええ。それで元々4年くらあい働いたら転職すると思っていたんです。4年で勉強して技術と経験を積みつつ実績も積んで、会社にも貢献したくらいで抜けて、次にさぁ人工知能開発だ!と考えていたのだけど、実際四年くらい働きつつAIまわりのことを見ながら生活してたらAIブームが来たんですよね」

 

なるほど、AIで食べていける業界ができたわけですね。でも、転職しなかった。なぜでしょう?

 

「自分が想定してたAIと方向性が違ったんですよ。未知なデータを解析する優秀なプログラムといった感じのもので、意識や心を作ろうとしている場所は無かったんですよね。なのでもういっそのこと意識や心を作っていくのはライフワークにしようと考えたんです。ライスワークは別に考えようと。で、そうなるとお金を稼ぎつつプログラムの知識や技術を手に入れられるプログラマーという職業は最適だなと。」

 

職業としては最適でも、ライフワークとのバランスはどうだったのでしょう?

 

「そこですよね。元々うちの会社は有給と夏休みを合わせて二週間くらいとっても文句を言われない会社だったので、それを使って国内外を回っていたんですね。僕がそれまで主に見て来たのは医療と理工の人々だけ。そのいままでの経験だけで『人間』というものを決めつけられるほど人をみていないなと思っていて、いろんな人間をたくさん見てきた方がいいなと。例えば自分たちの所属する日本という枠組みで、同じようにITの企業で働く人々と言っても、それぞれが全く違う人生、違う生き方を送るのを見てきて、同じ脳なのに全く違うものができあがるわけですよ。これをもっとたくさん見る事と、深くみることで、自分がアウトプットしたいサンプルを得られるのでは?自分が作りたいものがもっとはっきりしてくるんじゃないか?と。それでいろんな文化や国をみたいと思うようになったのと、二週間は短いぞと思うようになったんです。一個の国に1ヶ月か2ヶ月くらいは滞在しないと見えてこないものが多いことが分かってきて、既に見た国も別の季節、別のタイミングでみたりもしないといけない。そういう生き方をするやるためには、この会社で働き続けるわけにはいかないかなと思って退社も考えました。フリーランスになって仕事を受けながら働こうと。」

ジョージア のクタイシという宿で。オーナー夫婦がとても優しく、おじいさんは毎日のようにワインを勧めてくる。

でも、まだ働き続けているのはなぜでしょう?

 

「ちょっと話はそれるような気がするのですが…、当時チームマネージャーだった僕は部下や後輩に働く上で不満はない?って聞いても『何もないです。今後は社内でこれこれこういうことを頑張りたいと思います』って言うんですよ。でも1ヶ月後には『実はやりたいことがあって会社辞めます』って言って辞めていくのを何人も見てきて、それが本当に嫌だったんですよね。だから自分はそれをやらないぞと。ちゃんと『こういう生活をしたいです。』って会社に話してからそれがダメですって言われたらじゃぁしょうがないってなって辞めようと思ったんですよね。」

 

それが八年くらい前の話。フリーランスの人を中心にしたノマドワーカーという単語がちらほら聞かれるようになりだしたころで、もちろん会社勤めしつつ完全に家を無くして旅暮らしをする人はまだほとんど居なかった時代。どのように会社と交渉したのだろう。

 

「最初上司に相談して、そしたら本部長が良いって言えば良いぞってなって本部長に相談に行ったら、自分は良いと思うが社長がなんと言うか…ということだったので、社長のスケジュールを調べて直接聞きに行ったんですよね、社長室に。」

 

大胆ですね!辞める前提だったのも影響したのでしょうか。

 

「そうですね。あと、偉い人が言う社交辞令的な『困ったことがあったらいつでも相談にきてくれ』とか真に受けるタイプなのもあってのことかもしれません。そういうの本気にして本部長や社長に相談しちゃう。それで社長に一通り説明したら『分かったから一旦帰ってくれ』って言われました。笑 で、少し時間はかかったのですが最終的に社長が『お前の考えは分かった』って言ってくれたので、辞める必要がなくなって、それで部長や総務の人、社内セキュリティの部署なんかの会社の中の様々な人が準備に協力してくれたんです。で、会社を辞めてフリーランスになる予定が、今も辞めずにその会社に勤めながらいわゆるノマド暮らしみたいなことをしています。」

エストニアで知り合った岡山の友人に誘われて、ネパールへ行った時の、現地の人たちと一緒に一枚の絵を描くイベントの帰り道

一気に社内環境を変えてしまったわけですね。

 

「そうですね。今も僕みたいな完全にノマドな暮らしをしてる人は社内には居ないようですが、働き方を会社に提案する人は増えたようで、例えば結婚して子供ができるから地元に近い山形支部に転属したいって言ったり、介護の都合もあるし関西支部で働きたいとか、他にもこんな働き方ができないか?って提案は増えて、結果的に退職者は減ったんじゃないかなぁ。」

こちらがそのネパールへ行った時に、イベントで現地の人たちと一緒に描いた絵

働く側からするとライフステージの変化に柔軟に対応してくれる会社はありがたいだろうし、企業としては有能な社員が流出するのを少しでも防げる。矢野さんの挑戦の為の突破があったおかげで社会が少し暮らしやすくなったわけですね。

 

「結果的にではあるけど、そうなんじゃないかなぁ。それで言うと、僕はノマド中にもチームマネージャーだったのだけど、どうにもマネージメントに力を割く時間が増えてしまって自分の技術は停滞することになって…部長や本部長に相談してマネージャー職を降りて平社員に戻ったんですよ。」

 

自ら降格を申し出たわけですね!なるほど。

 

「給与は十分だし、マネージメント力が欲しいわけでもないからね。僕が欲しいのはプログラムの技術だし、それで会社に貢献できているはずだから。今は平日は9時か10時に始業して、夜は7時か8時には終業。終業後と週末に町に出る。それを数週間経た週末に次の場所にバイクで移動するという暮らし。」

 

バイクの免許もこの暮らしの為に取得した。移動費、維持費、駐車代などを考えてバイクを選んだのだという。そして10月くらいになると国外へ移動することが多いそう。バイク移動にとって冬は厳しいからだ。3ヶ月を国外で過ごし、1月に帰国。1月中は主に国内で過ごし2月に入る頃には再び海外へ。4月ごろに再帰国という流れが多いとか。

矢野さんのバイク。2台目だそう。

「国外の滞在を最長で3ヶ月にしてるのって、ビザ的にもクレジットカードの保険的にも良いのですよね。あと、1月にある全社員出席する会議には出ておきたいのもあって1月には帰国します。そして東京に寄ったら社長に必ず挨拶はしていて、毎回笑顔で元気か?!って聞いてくれるんです。そんなルーティンですね。」

 

矢野さんの全財産はバイクを除き総重量27kg 荷物は70ℓの大きな登山用バックパッックに20kgくらい、小さめのザックに7kgくらいという組み合わせ。これも多くのLCCが設ける預け荷物最大20kg、持ち込み荷物最大7kgというラインを考えてのことだろう。さすがに端端から旅慣れている感じが伝わってくる。どれだけの場所を回ったのだろう。

 

「既に47都道府県、20か国はちゃんと見て回ったと言えるかなぁ。見知った町、地域ってなると10箇所くらい。」

日本のゲストハウスで荷物整理の一コマ。持物は少ないがミニマリストではない。

お気に入りの町とかあるんですか?

 

「長野県と徳島県にそれぞれ一つずつ町の成長に興味を持っている場所があって、他にもやっぱり居心地のいい町ってのはあって、うっかりしてるとそういう町ばかり回りそうになっちゃうんだよね。でも辛い思いまでして家を捨てたのに、居心地のいい町ばかり回ってどうすると思って、少なくとも半分は知らない町にいくようにしてる。それでさっきいった長野県と徳島県にそれぞれ一つずつある町には毎年必ず一度は訪れるので、その2点間に一つ拠点を見つけられたらなと3年くらい前から考えていたんだよね。」

 

例の今作っているラボというか研究所の話ですね。

 

「そう。コロナが始まる前から少し考えてて、半年くらい欲しい物件のイメージ、使用用途を徳島から長野の間に居る友人たちに伝えながら移動していたら建築士の友人から空き家バンクにこんな物件があると教えてもらったのがイマ直してるこの家」

 

紹介された家には登録有形文化財のプレートが貼られていた。文化財って買えるの?と思ったそうだが、その日のうちに役場に連絡を入れ、それ以降必要な書類を出したりと手続きを進め、無事購入にこぎつける。
 

文化財のプレートの横に矢野さんの名刺

物件の決め手はどこだったのでしょうか?

「建物がよかったのはもちろんだけど、立地もちょうどよっかった。徳島のこの西側エリアでいうと幾つかまちづくりや地域活性で盛り上がりがある地域があって、そういった場所からちょうどずれてるんですよね。そういったまちづくりに参加してるわけじゃないという態度を示したかったのと、人から『ああ、その地域の人になったのね、まちづくりに参加するのね』みたいに映らないような場所にしたかった。」

水運の為に川にすぐ降りられるように

どういうことですか?そう見られるのが嫌だった、ということですか?

 

「そうですね。嫌だったんだと思います。人の気持ち、心を知りたいっていうのはずっとずっとあってそれはつまり人がどう想うだろう自分ならどう思うだろうというのを考えながら生きてるわけで。特に今回の物件は住居として購入するわけでもないのだけど、『矢野さんもついにノマド生活に終わりを告げ定住したのかぁ』と思われないようにもしたかった。家の改装が完成したら研究所として春、夏、秋に1ヶ月ずつくらいの利用滞在をイメージしていて、いわゆる普通の住人や移住者としての町への貢献もできないので、過度な期待も持ってもらいたくなっかったってのもあるし。」

当初は床も壁も相当な状態だった


 

今では無事に床も貼り直し、仕事室に。


でも私が町を歩いてみて感じたことは、矢野さんはもう既に地域の人に受け入れられているし、少しずつ良い波も起こしてるのでは?というものでした。

 

「僕がこれだけ色々な地域を見て来たからこそもう身についている、地域の人たちが移住者に何を求め、どういう関係を求めてくるのか、どういう距離感が良いのかというのと、各地域で見て来た良いアクションや良い物件の活かし方使い方なんかを僕はもう知ってて、その知ってることを再現するとああこうすればいいのかと気づいた住人の人たちが動いて、それで町はちょっと良くなるんだと思うんです。こんなまちづくりをやるぞー!って町に押しつける気はないけど、自分が過ごす周囲はよくなって欲しいですしね。」

徳島でできた友人たちが「夜ノ祭」と称し集ってくれる

具体的にはどういう動きをされているのですか?

 

「(自分が中心にならず)この物件の取得に関わってくれた建築家の方もそうですし、もう既にまちづくりをがんばってる行政の人とかを持ち上げていくような形ですかね。その為にというか、この家を使った住人参加のワークショップとかを彼らにやってもらったり。僕がマネージャーをやっていた経験があるからたぶんそういう動きになるんだと思うんです。ほら、戦隊モノのチームリーダーてレッドのイメージじゃないですか?でも本当のチームリーダーって自分が戦ってたらダメで、本当はチームの雑用係なんですよね。それを経験から知ってるからそういう立ち回りなんだろうかなって、今考えてみるとですけど。」

 

地元民参加のワークショップ形式でつくられた建物裏の戸

この研究所のお話を伺っても大丈夫ですか?

 

「ええ。この研究所で研究する内容としては、AIの中でも汎用人工知能(AGI)というもので、自分自身で課題意識をもって学習していくタイプのAIの研究です。3年くらい前から、もしかしたらこうじゃないかな?と思う意識や心の出来上がりのアイデアが湧き上がってきていてそれを試そうというものです。」

 

どういったアイデアでしょう?

 

「意識や心は言語の上に存在してるのではないか?というもの。ジョージアの田舎町で英語も通じない場所に行った時、現地の言葉を書き取り学習しててあれ日本語って相当おかしな言語だなと感じるようになったのがきっかけで考えるようになったのですが、例えば世界的に見ても日本人の特徴として奥ゆかしさがあると思うのですが、そういう文化というか、集団における心の方向性みたいなものを作っているのも言語の上に存在していると思うのですよね。」

 

なるほど。

 

「具体的に言うと、日本語のように一つの漢字に四つも五つも読み方があるのは稀なはずで、しかもこれがかなり厳密な運用をされている。例えば『大麦麦芽』という言葉の中にある『麦』という漢字をどう読むか、(知識や経験を持たずに)初めて読むと多くの場合失敗して訂正される。つまり言語習得の過程でチャレンジしては失敗し訂正される機会が圧倒的に多い言語であると言えるのではないかなって。日本人皆がそうやって言語習得しているから、率先して動く人間やリーダーシップを発揮する人間が育ちにくい。チャレンジしたら失敗して、その他の人の失敗を見て学習する言語ですから、そりゃ静かに人の間違いを見て自分に活かす国民性になるのでは?と考えているわけです。』

その考えをベースにしてこの研究所ではどういったことをされる予定なのでしょう。

 

「AIという脳の部分だけでなく、ボディ、体を作ろうと考えています。赤ちゃんが言語を覚えていく過程でお腹がすいた、寒い、頭痛いなどのボディの不具合を解決するために音を出して、その音の精度を高めていってボディの不具合を解決する、目的を早く達成という過程を自ら何度も経つつ言語を習得していく必要があるのではないかと考えたわけです。それで、ああこれは不具合を起こすボディが必要になってくるぞとなって今までの背負える全財産27キロではおさまりきらないなとなってきて、この研究所が必要になったんです。」

 

そうなんですね。しかし研究所というともう少し近代的な建物のイメージがあると思うのですが。

 

「十分ですよ。雰囲気もよくって、広くて安くて面白くって、いい感じに改装もしやすい。田舎町も渡り歩いてきていたので、地方にポテンシャルが高い物件がたくさんあるのは知っていて、殆どの場合それは『空き家問題』という形で存在しているわけだけど、場合によっては貰って欲しいって言われるような感じで存在してて。元々そういうのを一つ手に入れて自分の研究所に改造しようと思っていたんです。」

日中の仕事が終わればDIY

ポテンシャルが高い物件というのは?

 

「少し前に言った事ともかぶるんだけど、地方では沢山の空き家があって問題だって言われているけど、良い改装をして良い感じに使って町にもいい効果をあげてる事例を僕は沢山知ってるわけで、そんな素敵なレベルに精度の高いマネはできないかもしれないけれど、ある程度なら僕でもできるだろうと。大工さんや地元の人なんかに頼る所は頼って、いい感じに改装していけるだろうと。そうすると僕も楽しいし、結果的に町にもちょっといい効果をもたらすんじゃないかなぁと。だから空き家は問題なんかじゃなくってエンタメというか。そういう意味でポテンシャルは高いよなぁって。まぁもしかしたら、僕は地域活性とかまちづくりとか本懐じゃないからこそ、気軽にできるのかもしれませんが。」

 

町歩きをしていた学生さんを呼び込んで室内を見てもらうことも

 

確かにそうかもしれません。今後この研究所での研究が成功した暁にはどうなっていくと御考えですか?

 

「完成したら、僕がやったーってなって後は余生ですよ。笑 まぁ機械で作れるものは量産できるってわけで…そこからは余生。笑 」

 

なるほど。余生のまだまだ御聞きしたいことはあるのですが、随分と長くなってしまいましたし、ご近所さんが白菜を差し入れに来られたようなので、一旦今回の取材は切り上げさせてください。笑

 

矢野さんは矢野さんの人生の挑戦をしていく中で、自分の欲しいもの、環境を作っていっている。そして社会の中で生きている限り、結果的に社会にも良い環境を作っていくことになる。誰かが何かを挑戦すること自体に価値があるというわかりやすい例の一つだろうなと。

DIYをしてる最中も地元の人が度々訪れる

これからも矢野さんの活動を継続してお伝えできればと思います。

 

 

 

 

 

この記事のディレクター

アーティスト/マドリスト/プランナー/うどんの人

森岡 友樹

ちょっとおせっかいなくらいでちょうどいい。

#徳島 #三好 #AI #移住 #地域 #空き家

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